執念

「マスター、いつものヤツよろしく」
「またあんたかい」
男はそのマスターに10メートルほど離れた席から話しかけた。マスターはあきれた顔をして、いつものをつくって男の席まで歩いていこうとした。
「おい、そこからすべらしてくれればいいんだよ」
「掃除大変なんだよ…」
マスターは小声で文句を言いながらも、いつものとうりに10メートルをすべらした。
6メートル行ったところに皿があった。
「あっ」
ガシャン
「またか」
店の高級グラスはこなごなにちった。そして、中身も。
男は残念そうに帰っていった。

次の日も、男は来た。
「マスター、いつものヤツを」
「やればいいんだろ。もったいないのに」
今回は順調にまっすぐすべってゆくグラスをみつめる。
皿も、段差も、するめ1本もない。
あと、60センチ!男がうれしそうに手をのばしグラスをつかむ…前に隣の男がすっとそのグラスをとった。
「あんたのおごりかい、ありがあとよ」
その男はそれを一気に飲みほし、笑いながら店を出た。続いて、いつもの男も。

やがてその店もつぶれる時が来た。けれどいまだに男は毎日来ている。
以前店があったけれど、今はもうただの空き地になってしまっているこの場所に。
マスターが見たとき、男はいつもそこにいる。
「あんたどうしてそこまでがんばってるんだい」
「おれは全国の店をまわってこうやってうけとった飲み物を飲んでる。ここで終わるんだよ。ここが最後なんだ」
「変な執念もってるね」
けれどマスターは夢も執念もない自分がちょっぴり恥ずかしくなった。そして、はじめてこの男を尊敬してしまった。けれどこんな男を尊敬した自分もちょっぴり恥ずかしかった。
マスターは買ってきたワインを持っていたのに気が付いた。
「今日はただにしとくよ」