暗闇

海で溺れたときの記憶は今でも大切に持っている。でも別に故意でそうしている訳ではない。溺れたのは6歳ごろ。一度記憶を失ったのは一昨年だ。わたしは20年間の記憶を失った中、1つだけ溺れたときのことだけは鮮明に思い出せた。わたしの記憶はそれだけになった。かろうじてわたしの身元がわかったのはこの記憶のおかげだった。

広い中、もがくわたしに見えたのは暗闇だけだった。暗闇がわたしを包むように抱きかかえ、久し振りの客を離すものかとふんばっていた。波はわたしの体を好きなようにもてあまし、飲み込もうとしていた。息が出来ない。元々泳ぎの得意でないわたしがずっと目を開けておくことは出来なかった。目を閉じ、開け、また閉じ…それを何度繰り返したことだろう。だが目を開けたって見えるものは決まっていた。暗闇。目を閉じていたときの方がいろいろなものが見えた。半透明なあわい水色と薄い緑色が混ざり、わたしの目を狂わせる部屋の中、泡だけが立ちのぼる。でもこれはわたしの、ただの水中のイメージだ。現実に目を向けると、暗闇がわたしを包む。
「離して…」
声でない声を上げた。その声は誰にも届かなかった。わたしが半ば抵抗をあきらめかけたとき、上に光が見えた。その光が暗闇の中で妙にまぶしく思った。光を見た瞬間、暗闇はただの海に変わった。わたしは光を目指してまた、もがき始めた。少しずつだったが、今度は上へと進むことが出来た。わたしの涙が、海の水に混ざっていくのがわかった。ここは暗闇じゃない、海なんだ。その言葉を繰り返した。この言葉と上に見える光だけが、わたしを励ました。途中に赤い眼を見たことも、強く印象に残っている。その眼は強く不思議なふいんきを辺りに漂わせていた。その眼はわたしがここに残ることを望んでいたことが、そのときのわたしにはなぜかはっきりとわかった。光と、眼と、言葉。この3つがわたしを迷い、狂わせた。どうしろというの? いつの間にか、光がすぐ手の届く場所にあった。この光を握りしめるべきか、あの眼の思いに逆らわずこのまま波に体を任せるべきか。 わたしはあきらめた。あの眼が怖かった。その時、光がのびてきてわたしの腕をつかんだ。もはやわたしに抵抗する力などなくなっていた。光に、暗闇から引き出される瞬間見たあの眼はいっそう赤く、恐ろしいものになっていた。 引き上げられた後、わたしは死んだように動かなくなった。それでもなお、光はわたしの腕を強く握りしめたままだった。もう聞こえないはずの耳に、わたしの名前を呼ぶ声が降りかかる。わたしにも、名前があったっけ… 目を開けると、まだあまり見えない目に光の正体がぼんやりと浮かび上がった。 …お母さんの手。